Twinkle Star!

6 アトラス山にて

 午前中に、形式的な終業式も、テスト返却を兼ねた成績表配布も終わった。午後からは一月半ほどの夏期長期休暇が始まる。流石に基礎的な内容で赤点を取り、長期休暇をふいにした一年生はいなかったらしく、皆晴れやかな顔で成績表を手に語らっていた。
 エトワールも当然、赤点になどならなかった。各項目について十段階中二番評価が高い、一等級と〇等級が混じって並ぶ成績表は、こうならなければおかしいものだ。……すべて〇等級にならず、一等級に下がった理由が「授業中の態度」なのが今一つ気に入らなかったが、実力を過小評価されたわけではないので些細なことだと己を納得させる。
 そしてスピカも赤点は回避したらしい。成績表を受け取る前は、ハラハラと落ち着かない様子だったが、今はニコニコと笑っている。
「大丈夫だったのかよ」
「うん! ほら、頑張ってるって!」
 話しかけてみれば、スピカは嬉々として成績表を見せてきた。厚紙に印字されたそれを受け取ってじっくりと見る。
「……何だ、六等級以下ばっかじゃないか」
「でもでも、先生が頑張ってるって!」
「そりゃ努力してるんだからな」
 スピカの成績表はとてもいいとは言えない内容だった。教師からのコメントはポジティブだが、十段階の半分より下ばかりが並び、ギリギリ赤点は回避出来たという雰囲気だ。
「ま、二学期は一学期より内容難しくなるからな。冬休みがなくならないようせいぜい頑張れよ」
「うっ。だ、大丈夫だよ! たぶん!」
 一学期はいわば軽いジャブのようなもの。プレアデス魔法学園の本番は二学期からだ。習熟度ごとにクラス分けされ、テストの頻度も月一回に増える。同じプレアデス魔法学園の卒業生でも、常に上のクラスにいた者とそうでない者とでは、評価も大きく変わる。いつまでも上のクラスに上がれない、あるいは上がっても落ちてきてしまう生徒は問題ありと見なされ、冬の長期休暇が消えるとメフィストフェレウスも話していた。
 スピカはその問題ありに分類されそうな生徒だった。いくら基礎を仕込んでも実用にはまだ遠い。風魔法は生来のセンスがあるから上のクラスにいけるだろうが、他は怪しかった。またスピカにとって都合の悪いことに、上のクラスほど実践的な内容で、下のクラスほど座学中心だという話もあった。
「二学期までお前のお守りなんて嫌だぞ」
「だいじょぶ、たぶん……」
「スピカさん、いらっしゃいますか?」
 楽しげな雰囲気で賑やかだった教室内が、波打つようにざわめいてから静かになる。教室の入り口に目を向ければ、足下まで届きそうな長い緑の髪が特徴的な、中性的な外見の男性が立っている。つい数時間前に全校生徒を相手に話をした教師の一人、教頭のコメットの登場に、生徒達は動揺していた。
「あ、コメット先生」
 一人だけ、スピカは何でもないかのように立ち上がった。教頭と養父が知り合いだからこんなに平然としていられるのか、それとも単に教師に対して物怖じしていないのか。おそらくは後者だろう。
「地元に帰る前に少しお話をしたいのですが、よろしいですか?」
「はーい。それじゃあエトワール、また明日でね」
「ああ」
 スピカから聞いた話によれば、彼女の学費を出しているのはコメット教頭だ。スポンサーとしても、養父の知人としても、スピカの成績は気になるところなのだろう。呼ばれて素直についていったスピカを見送って、エトワールは自身の荷物をまとめて席を立った。しばらくの間、教室に用はない。夏休みが終わるまでは自室と図書館を往復する日々になるだろう。
 エトワールは長期休暇なんて二週間程度にして、あとは学業に励めばいいと思う。そもそもエトワール達は魔法を修めるために学園に入ったのだから、休みを喜ぶ理由なんてないはずだ。なのに皆、不本意でこの学園に入れられ、勉強を強いられているかのように休日を喜ぶ。よく分からなかった。
 そんなことを考えながら寮の自室に戻ると、リギルが箱にあれやこれやと詰めていた。何をしているのかと眉をひそめて、すぐに彼も帰省するのだと気付く。
「あ、エトワール。成績どうだった?」
「悪いはずがないだろ」
「だよなー」
 エトワールが戻ってきた事に気付いたリギルは荷造りの手を止めて話しかけてきた。放っておいていいのにと溜め息をつきながらも、素直に答える。特に隠す理由もない成績だからだ。
「お前こそどうなんだよ」
「そりゃあ当然、ほぼパーフェクトだっての。……何で担任でも授業教えてもない奴から評価書かれてたのか全然分かんねぇけど」
「日頃の行いじゃねぇか?」
「えー、善良に過ごしてるつもりだけどなー」
 リギルはリギルで不当な評価を受けていたらしい。自分だけではないと分かって溜飲が少し下がる。成績表を机の上に放って、エトワールは椅子に座り、ここ数日取りかかっている魔具の呪文が書かれたノートを見た。
「あれ、エトワール、荷物まとめなくていいのか?」
「何でだよ」
「何でって、帰るなら明日しかないだろ。飛空挺、明日出たら次は夏休み終了前だぞ?」
「ああ。俺帰らないから」
 怪訝そうなリギルにそう答える。地上と行き来する飛空挺は定期的に出ているが、基本的には物資運搬用であり、生徒達が乗るには結構な高額を払ってチケットを買う必要がある。無料で利用出来るのは学期の始めと終わりだけだ。だから明日を逃すと、地上へ帰る手段はしばらくなくなってしまう。
 しかしエトワールは別にかまわなかった。この魔具が完成すれば自力で地上と行き来出来るし、そもそも帰るつもりもない。帰らないなら急いで荷物をまとめる必要もない。休みだから帰省しなければいけない規則もないし、静かになった学園でのんびりと自学自習に励むつもりだった。
「お前な……家族は大事にしとけよ」
「別にいいだろ」
 リギルから余計なお世話にため息をつく。エトワールは六人兄弟で、一夏の間、四男が帰らなくとも賑やかさが変わるわけではない。それに家の事は全て家督を継いだ長男がおこなっていて、エトワールが帰る必要なんてどこにもなかった。
 翌日、夏休み一日目。飛空挺の発着場周辺は順番待ちの人でごった返し、寮内も騒がしかった。
「じゃあエトワール、夏休み明けたらまた会おうぜ」
「戻ってこなくていいんだぞ」
「ははは、そしたら困るのはお前だぜ? じゃあなー」
 初めて会った時と同じ、シックなデザインの黒いコートを着たリギルもまた帰省する内の一人だった。エトワールとしてはそのまま戻ってこなくともいっこうにかまわないのに、「困るのはお前」だなんて不可解な台詞を残して去っていく。リギルがいなくなればエトワールは一人部屋で悠々自適に過ごせるはずなのだが。
 まあしばらく顔を合わせない相手の事なんてどうでもいいと切り替え、エトワールも準備を始めた。スピカとの約束であるアトラス山へと向かうためのものだ。昨日作った、飛行の呪文を込めた魔結晶は、長さ一メートルほどの板につけた。この魔具を使えば、サーフィンの要領で空を飛べるというわけだ。急に作ったためデザイン面を凝れなかったのが心残りだが、それはまた後日やればいいだろう。
 防寒具を着込み、念のために携帯食料を入れた鞄を提げて、エトワールは飛空挺の発着場とは逆の方向に向かった。どんどん人が減っていき、学園の中でももっとも西方に作られた演習場につく頃には、人気自体なくなっていた。
「あ、エトワール!」
 そこにスピカが待っていた。真新しいホウキを持ち、エトワールと同じく防寒具を着込んでいる。その防寒具もどこか着慣れていない、新しい感じがした。
「それ新しく買ったのか?」
「うん。アトラス山に行くって言ったらコメット先生が買ってくれたの」
「ふーん……」
 止めるのではなく、行くための装備を買い与えるのは、保護者としていいのかと思いつつも、コメットもスピカと同じように「花を採るだけなら問題ない」と考えているのだろう。
「ま、日が沈まない内にさっさと行くか」
「うん、そうだね。えっとね、あっちだよ」
「……本当かよ」
 迷いなく空を指すスピカが今一つ信用出来なかった。未知の地に行くのだから当然下調べはしたのだろうが、日頃の無知っぷりを見ていると正しい答えまでたどり着けたのか怪しんでしまう。幸いにして障害物のない空の旅、もし間違っていれば学園のある方角に戻ればいいのが気楽だった。
「さ、エトワール、あたしの後ろ乗って」
 手荷物の最終確認も済ませ、いよいよ飛び立つという段階になり、スピカはほうきにまたがってそう言ってきた。どこか得意げにすら見える。エトワールは大仰に肩をすくめて眉をひそめた。
「なんでだよ」
「え、乗らなくていいの? ほうきの二人乗り怖い?」
「ほうきの二人乗りって何だよ……俺はこれがあるからいいんだよ」
「これ?」
 どうやらエトワールを後ろに乗せて飛んでいくつもりだったらしい。労力的にはそちらの方がいいが、手助けなんてなくても大丈夫だと板を地面に置く。不思議そうに首を傾げるスピカの前で板に乗って一つ深呼吸をした。
「スタットコールオンフライトエンデ」
 起動のための呪文を唱えると、下からの風が起こり、ふわりと宙に浮かんだ。「うわぁ!」とスピカが目を丸くする。
「すごい! それ、どうしたの?」
「作ったんだよ」
「へぇー、すごいね! ほうきより色々出来そう! エトワールすごい!」
「急拵えだけどな。……ほら、さっさと行くぞ。日が暮れちまう」
「あっ、そうだね。行こう!」
 何の加工もしていないほうき一つで飛ぶスピカに対抗するための策に、彼女はキラキラと目を輝かせて「すごい」を繰り返す。多少横やりがあったとはいえ、このレベルの魔具を作れる魔法使いはごく少ないだろう。だから評価されるのは当然の事なのだが、こうも正面から尊敬と憧れを向けられると、胸の奥がむずがゆくて落ち着かなかった。よく分からない自分の反応に眉をひそめて、誤魔化すように出発を促す。
 軽く地面を蹴ると、スピカはそれだけで宙に浮かんだ。「あっち!」と改めて方角を示すと、そちらに向かって飛び始める。エトワールもマナを動かし、スピカの後についていく。
「……ッ」
 学園の領空内から出て、雲の上に広がる青空を飛ぶ。障害物一つない景色に見とれたのはほんのわずかで、すぐに顔を歪めることになった。
 まず空気が冷たい。「寒い」を通り越して痛みすら感じる。さらにスピカの速度は明らかに速く、追いつこうとすれば風を切る音がごうごうと耳に響く。体を防寒したところで顔は何も覆っておらず、冷気が肌に刺さる。薄目を開けるのがやっとだ。
 せめてもう少し緩いスピードで、と思うが、叫ぼうにも口が開かないし、音が届く気がしない。魔法で自身にかかる風圧を緩めようにも、スピードを上げて飛ぶスピカについていくだけで精一杯だった。
 どれほど飛んだか、消費していくマナに体の内から冷えていく気配を感じた辺りでスピカは下を指した。直後、まっすぐ飛んでいた彼女は地上に向かって降下していく。ようやく目的地かとエトワールも後を追った。
「――はっ! はぁ、はぁっ……!」
 降りたのは氷の張った湖のそばだった。幸いにして周囲は晴れていて、風も吹いているものの、先ほどに比べればずっと凪いでいるように感じる。ブレーキをかけながら雪の上に着地したエトワールは、直後がくりと膝をついてむせんだ。
「わわっ、エトワール、どうしたの?」
「速すぎ、なんだよ……! っそ、いってぇ……」
 体内のマナがほとんど空っぽに近くなっているのが分かる。連続でハンマーで殴られているかのような頭痛がエトワールを襲い、大きくあえぐ事しか出来ない。一方スピカはケロッとした様子で、彼女の天性のセンスに眉間のしわをより深める。
「大丈夫?」
「……少し休ませろ」
 可能ならばすぐに寝たかった。もう無理だと全身が悲鳴を上げている。ここで倒れ、意識を失えば、さぞ心地いいだろう。しかし凍死の危険と、スピカの前であるという状況に、意識を無理矢理起こす。板の上に座り込むと、スピカがちょこんと隣に座った。それだけで体に当たる風が弱まるのが分かった。おそらく無意識に風を操っているのだ。
「……こんな場所に花なんて咲いてるのか?」
 気を紛らわすように疑問を呟く。空気は冷え切っていて風も相応に強く吹き、一面雪と氷に覆われた山頂。こんな僻地に咲く花なんてあるのだろうか。
「きっと咲いてるよ。だって昔はここからお花持ってきてたんだよ?」
「どのくらい昔だよ」
「えっと……」
 いつの話かと問えば、スピカは視線を宙にさまよわせた。記憶を辿っているのか、ぶつぶつと何事か呟いている。その表情が徐々に渋くなり、上から下へと顔が向かう。
「……王国がまだ島国だった頃?」
「何千年前だよ、それ」
 ようやく出てきた答えに呆れてしまった。アリイェメレク帝国――ほんの二十年ほど前までは王国だったこの国は、かつてはもっと小さな島国だったと聞いたことがある。火山の噴火を機に大陸に移り住んで以降、どんどん規模を拡大していき、今の巨大な大陸国の姿があるらしい。
 歴史に興味を持たないエトワールでも覚えているぐらい有名な昔話だ。寝物語に何度も何度も、うんざりするほど聞かされた。当時はまだ五大貴族が存在しなかったというのだから、どれだけ昔で不確かな話か、推して知るべきである。
「ちゃんと今の情報を調べろよ」
「だ、だってよく分かんなかったんだもん。いーちゃん達に手伝ってもらったけど、難しい単語ばっかだったし、新しい本なかったし……」
「いーちゃん……ってあの三人組か」
 「いーちゃん達」とはテスト前にスピカに声をかけてきた三人娘のことだろう。金目の少女はスピカ以上に役に立たなさそうだが、他の二人はそこそこ賢そうだった。そして調べ物において、人手の多さは何よりの武器になる。学園の図書館の蔵書は新しさも含めかなりの質と量であり、彼女達も手伝って有効な文献が見つからなかったとなると、アトラス山についての新しい資料は存在しないのだろう。あるいは神殿で独占されて世に出回っていないのかもしれない。
 どちらにしても八方塞がりに近い状況だ。スピカも自分の見積もりの甘さ、下準備の足りなさに気付いたのか、難しい顔をして悩んでいる。一度帰るよう促そうとしたエトワールだったが、突如として鳴り響いた咆哮に身をすくませた。
「ッ!?」
「なっ、何!?」
 二人とも反射的に立ち上がり、辺りを見回す。白銀の世界には生き物の気配なんて欠片もなく、寒さと雪が生存を拒んでいる。こんな場所にいったい何が住んでいるというのか。先ほどの咆哮が聞き間違えでなければ、それは――
『ヴァウッ!!』
「ひにあ!?」
『オネエチャン! オネエチャンダ! オネエチャン!』
 黒い巨大な何かが数歩離れたところに落ちてきて、スピカがパニック寸前の悲鳴を上げた。エトワールもスピカがいなかったら、動揺して何も考えられなかったかも知れない。スピカよりもしっかりしなければという意地で、エトワールは思考を保っていた。
 落ちてきたのは、人に似た何かだった。人間のような手足が一対ずつあり、頭部は牛に似ていて、巨大な角が天に向かって伸びている。しかし影のように真っ黒で、全身から黒いモヤをあふれさせている。その中にあって、青い目がこちらを見ている事ははっきりと分かった。さらにエトワールの三倍以上も背丈が大きく、筋肉質で、明らかに人智の範囲の生き物ではない。獲物を見つけた喜びからか、耳障りな音で吠えている。
「化け物――」
 そう呟いたのはエトワールとスピカ、どちらだったか。怪物、化け物、そう呼ぶにふさわしい外見をしている。呟きを聞いて、化け物の目が青から赤に変わり、モヤが濃くなった。
『ヴァ……ケモノ……?』
「ッ、スタットコールオンフライトエンデ!」
「わきゃっ!?」
 ヤバい。そう直感したエトワールは、スピカの腕を掴んで魔具を起動させた。一刻も早く距離を取らなければいけない。あの化け物がなんと言ったかは分からないが、ともかく逃げなければまずい事になる。
『チガウチガウチガウ! ボクボクチガウチガウ! オネエチャン! オネエチャン! アソンデ! アソンデ!』
 身を凍らせるようなと共に、雪を蹴る音が聞こえてくる。何事か喚き立てているが、あまりに醜く恐ろしい声でとても聞けたものではなかった。身を切る風の冷たさに頭がガンガンと痛む。それでも止まれば受け入れたくない未来が訪れる予感しかしない。
 雪面を低い高度で飛んでいく。大気中のマナをかき集めてひたすら速く、追いつかれないように。それ以外を考える余裕なんてなく、スピカが何か叫んでいるのも悲鳴としか思えなかった。
「エトワール! 前、前!!」
「――は、」
 どれだけ必死に飛んでいたのか、ようやくスピカの声が耳に届く。ハッと我に返ったエトワールの目の前には、雪原から顔を出した岩があった。
「あ、わ、あっ!?」
「きゃあああ!?」
 慌てて避けようとするが、遅い。速度の出た魔具は岩を避けられず、まともに当たってしまう。その拍子に二人は空中に投げ出され、掴んでいたスピカの腕を手放してしまった。
「スピ――ぁ、がっ……」
 手を離したら駄目だ。その思いで腕を伸ばそうとしたエトワールだったが、割れるような頭痛と共に意識を手放した。
「……ール、エトワール。起きて、エトワール」
「……ぅ、あ……? ッ――」
 呼びかける声に薄く目を開ける。ぼんやり景色を認識したのも束の間、鈍い痛みが意識を襲い、かたく目をつむる。そんなエトワールの額に温い感触が当てられた。柔らかなそれに、不思議と寄せられた眉がほどける。
「大丈夫?」
「スピカ……ここは……?」
 目を開けると、スピカはほっとしたように安堵の息を漏らした。彼女のそばにはライトの魔法で作られただろう光が浮いていて、エトワールとスピカを照らしていた。
「あの化け物に吹っ飛ばされて穴に落ちたの。何とか捕まえられて良かった」
 徐々に状況を思い出してくる。スピカと共にアトラス山を訪れ、黒いモヤをまとった化け物に襲われたのだ。まさか本当に化け物がいるなんて想定していなかったし、マナを使いすぎて気絶するとも思っていなかった。見積もりの甘さと己の未熟さが招いた結果に歯噛みする。
 マナが枯渇しかけているせいで痛む頭を押さえ、周囲を見回す。学園がすっぽり入りそうな広い空洞だ。遙か頭上にエトワール達が落ちてきたとおぼしき穴がある。
「あの化け物は?」
「分かんない。どっか行っちゃったんじゃないかな? あたし達のこと追いかけてこなかったよ」
「そうか。……まあこの高さならいくら化け物でも無理だよな」
 底から見上げる穴は点ほどの小ささだ。夜に見る満月とそう大して変わらないサイズで、飛行の魔法が使えるスピカならともかく、あの化け物では降りてくるのは無理だろう。ひとまずここは安全そうな事が分かって、エトワールも大きく息をついた。
「ごめんね、エトワール。あんな化け物がいるなんて……」
「……いや、あんなの分かりっこないさ。仕方ない」
 肩を落としてしょんぼりとするスピカにフォローを入れる。本当に怪物がいて、遭遇するとはエトワールも想定していなかった。情報を集められなかった時点で止めるべきだったのに、スピカの楽観的な想定に賛同してしまったのはエトワールの落ち度だ。
「あんなのがいるんじゃ、花は諦めた方がいいな」
「うん、そうだね。学園に帰らないと」
「ああ、そうだ、な……ッ」
 ほうきを握って立ち上がるスピカに続いて立とうとして、右足がズキリと痛んだ。うずくまって足首を押さえるエトワールに、スピカは慌ててしゃがみこむ。
「エトワール!?」
「……大丈夫、だ。このくらい……」
 外傷はなかった。おそらく岩にぶつかった時に足をひねったのだろう。一度自覚した痛みはどんどん大きくなる。頭と足首を交互に金槌で殴られているかのようだ。耐え難いものだが、スピカの前で弱音は吐けないと、歯を食いしばって痛みに耐える。
「違うでしょ、大丈夫じゃないでしょ!」
 スピカはそんなエトワールの強がりを叱責し、痛みから下を向いたエトワールの顔を両手で挟んで上げさせた。真正面から、責めるような目でエトワールを見つめてくる。
「……このくらい平気だ。それより早く帰……」
「平気じゃないでしょ!」
 ほんの十数センチの距離で怒鳴られ、反射的に体が硬直する。大声で何かを言われても、涼しい顔で流せるのに、スピカのこれは無理だった。目を丸くして呆然とスピカを見返してしまう。
「どこが痛いの?」
「――右足、が」
「足だね?」
 強く問われてつい正直に答えてしまった。スピカはエトワールの顔から手を離すと、足の様子を確認して、胸の前で手を組んだ。
慈しみ救われる貴方(lovin savin gracius you)この人の傷を癒してください(i wish yor ad for him)
 目を伏せて厳かに唱えられた聖言。いつもよりもずっと大人びた雰囲気の、年上にすら見えるスピカに目を取られていると、右足首をほわりと乳白色の光が包んだ。どこか暖かく優しいそれは、数秒もすると消えてしまった。
「これで大丈夫? どうかな?」
「え……あ? 痛くない……?」
 スピカに促されて右足を触ってみれば、先ほどまでの鈍痛が嘘のように何も感じなかった。試しに立って跳ねてみても、何の支障もない。先ほどの短い時間ですっかり治ったようだった。
「……何だこれ」
「慈愛と救済の神レスカティ様の聖言だよ。傷を癒してくださるの。軽い傷とかだとお応えくださらないんだけど、今回は大丈夫だったみたい。良かったぁ」
 ニコニコと笑うスピカはいつも通りの雰囲気に戻っていた。エトワールは、今起きた出来事が受け入れられなくて、ただ自分の足をじっと見ていた。
 エトワールが即座の帰宅を選んだのは、痛みを見せたくないという強がりもそうだが、魔法では傷は癒せないという事実が一番大きかった。どんな現象も起こせるとされる魔法でも、傷ついた体を癒す事は出来ない。傷の治りを早くする方法はあるらしいが、エトワールは知らなかった。だから治療手段が揃っている学園に戻ろうとした。
 それが聖言とやらで簡単に治ってしまった。魔法では不可能な事を聖言は可能にし、実現する。スピカの講釈を聞いても今一つ神の存在を信じていないエトワールでも、神の奇跡を信じざるを得ない出来事。
「エトワール、顔色も悪いよ」
「え? あ、ああ、マナめちゃくちゃ使ったから……」
「確かマナって使いすぎるとダメなんだよね? ちょっと休んでから帰ろう?」
「いや、別に――」
 怪我さえ治ったならいいと否定しようとしたエトワールだったが、急に目眩がして頭を押さえた。そんなエトワールを心配そうにスピカが下から覗き込む。
「無理しちゃダメだよ。ね?」
 頬を撫でる手が優しく暖かい。「大丈夫だ」と言いたいのに、言葉は出てこなかった。
「……あ。雪?」
 不意に、二人の視界に白い粒が入ってきた。肌に触れると冷たいそれは、スピカの言う通り雪だろう。いくら外の穴まで距離があると言っても、外界と繋がっているのは事実で、雪や雨を防げはしない。
「体冷やすと良くないよ。行こう」
 スピカはエトワールの手を握り、外へと続く穴から離れようとする。エトワールは不思議と抵抗出来ず、引っ張られるままついていった。
 エトワール達が落ちてきた空洞は、最初に感じた通り、かなり広かった。巨大な空洞の上にアトラス山があるかのようにすら感じる。そして歩いてみて分かったが、ここは廃墟でもあるようだった。
 歩きやすよう石畳が敷かれ、民家や店が立ち並ぶ街。風雨に晒されないためか、保存状態もかなりいいようだった。建物の様式は古くさく、当然ながらほこりっぽいものの、それらに目をつむり移動手段さえ確保出来れば、今でも住めそうな雰囲気があった。
 アレイェメレク帝国の前身である島国は、火山の噴火によって移住を余儀なくされた。当時の町並みはこんな感じだったのかと想起させる。歴史に興味のないエトワールも、痛む頭を押さえながらも感心して、歩きながら周りを見ていた。
「あっ、エトワール、教会あるよ! ここにしよう!」
 休む場所を探し歩いていたスピカは、他よりもかしこまった雰囲気の、三角屋根の建物を指した。窓があちこち割れてしまっているが、ステンドグラスがはめられていて、いかにもそれらしい。雪が落ちてくる穴から離れていればどこでも変わらないだろうと思いつつ、手を引かれるまま無人の教会へと足を踏み入れる。
 中はエトワールの記憶にある教会とそう変わらなかった。高い天井には宗教画とおぼしきものが描かれ、それを支えるように金の管が集まったパイプオルガンが最奥にしつらえてある。壇上に向けて整然と長椅子が並び、入り口までの一本道を作っていた。
「……はぁー……」
 ほこりを払ってから手近な席に座る。椅子が崩壊することもなく、背もたれに寄りかかってぐってりと体の力を抜いた。人前で気の抜けた姿を見せたくなかったが、マナの消耗はかなり深刻で、目を閉じると意識が持って行かれそうだった。
「うーん……?」
「どうした?」
 一方、隣に座ったスピカはキョロキョロと辺りを見回しながら、難しい顔をしていた。眠りに落ちると危険だと感じたエトワールは、眠気をさますためにもスピカに話しかける。
「あ、うん。ここ、何か変だなーって」
「そうか?」
「うん。聖印とか絵とか、九大神様の誰とも違うみたいだし、数も多いし……」
 「ほらあそこ」とスピカが指さしたのは、パイプオルガンの上部に飾られたレリーフだった。ひし形になにがしか彫られたそれらは十二個ある。「九大神」という名前の通り九柱あるとスピカから言われたのをぼんやりと思い出した。
「そうだな、三つ多いな」
「もしかしてオリュンポス十二柱様のなのかな……」
「……なんだそれ」
 初めて聞く単語だった。スピカに魔法を教える対価に、と、九大神の話はよく聞かされたが、オリュンポス十二柱なんて今までの人生全てを見ても聞き覚えがなかった。
「九大神様は世界を拓いた偉大なる方々で、その九大神様方のお母様方やお父様方がオリュンポス十二柱様なの」
「へー……そんなのがいたのか」
「そんなのって、失礼だよ、エトワール」
 神には敬意を払うべきだと、スピカが口を尖らせる。エトワールは軽く肩をすくめた。
「つったって、今は九大神の方ばっか信仰されてるんだろ? って事は今は偉くないって事だろ。おおかた自分の子供に反抗されて権威が失墜したんじゃないか?」
「むー、確かに九大神様への信仰がほとんどらしいけど、オリュンポス十二柱様は九大神様に世界を託したの」
「どうだか」
 昔話は得てして美化されるものだ。おとぎ話になるまで時間が経てばなおのことだろう。スピカは美談を信じているようだが、エトワールとしては、強大な力を持った存在がそんな穏便に自らの権力をあけわたすとは思えなかった。
「なんにしてもかなり昔の場所だよな、ここ」
「あ、うん、そうだね。オリュンポス十二柱様を祀ってる教会って今ないらしいし」
「よく残ってるよな……っ、ぅ――」
 弱まっていた頭痛が急に強くなって、エトワールは額を押さえて前のめりになった。
「え、エトワール!」
「耳元で喚くな……く、ぅ……っ」
 歯を食いしばって痛みに耐える。エトワールの保有マナ量はかなりのものだ。今まで大規模な魔法を使ってもマナ不足に陥った事はなかった。かなりの長距離飛行をした今回、初めて保有マナの枯渇を体験しているわけだが、想像していた以上にきつかった。体の内から冷え切っているような感じがするし、頭は断続的に痛む。弱まった頭痛に大きく息をついて、エトワールは鞄の中から棒状のクッキーを取り出した。
「それ、何?」
「ただの携帯食料。……気休めだけどな」
 食事はマナの回復を促進させる効果がある。とはいえ、マナ不足をただちに解消するものではない。十分な食事と睡眠によって健康が維持されるとか、そういうレベルの話で、現状では気休めだ。マナを直接接種出来る食品もあるにはあるが、学生のエトワールに入手出来るものではなかった。
「ねえ、あたしに何か出来る事ない?」
 よほどエトワールが心配なのか、顔を覗き込んでスピカがそう聞いてくる。
「っても何するんだよ。聖言でマナ不足が何とかなるのか?」
「そういう聖言もある、らしいけど……あたしにはまだ無理なの」
 シュンと肩を落とすスピカ。エトワールとしてはマナを補充する聖言があることに驚いてしまう。魔法では出来ない事の一つだからだ。
「……なあスピカ、お前何で学園に来たんだよ?」
「え?」
「聞いてりゃ聖言って魔法以上に何でも出来るじゃないか。なら魔法要らないだろ」
 魔法では傷を癒す事も、マナを与える事も出来ない。様々な奇跡を起こす魔法にも、そういった限界点がある。本人のマナがなければ、大規模な魔法を使う事も難しい。一方聖言ではそういった制限がないと言う。
 スピカは以前、学園で勉強する目的を「村で魔法を教えるため」と語った。しかし聖言があるのならば、何も魔法を普及させる必要はないのではないか。思い通りにならない自分の体への腹立ち紛れに、やや強い語調で聞けば、スピカは「それは違うよ」とたしなめるように返した。
「聖言はね、エトワール。魔法みたいに誰でも使えるものじゃないの」
「……そうなのか? お前はポンポン使ってるのに?」
「そうだよ。神様を信じてるだけじゃ特別な奇跡は授けてもらえないの。信じて、祀って、日々祈りを捧げて、ようやく小さな奇跡を授けていただけるんだよ」
 スピカは胸の前で手を合わせ、とうとうと語る。神に関して話すスピカは、やはりいつもよりもずっと大人びて見えた。
「あたしは教会で神父様のお手伝いしてたから聖言が使えるようになったけど、普通の人は、朝早くに祭壇の掃除して、お祈りして、神様への供物を用意して、聖書を朗読して、お祈りして……ってやる時間がないでしょ?」
「……そうだな」
 何らかの職に就いていれば、否が応でも何かしらの作業に時間を取られる。家族や知人と交流しなければいけなくもある。そんな日々の中で、神々に対して多くの時間を割く事は出来ないだろう。
「でも魔法は理屈さえ分かれば誰でも使えるんだよ。すごいよね」
「――いや、そんな事はないだろ」
 ニコニコと語るスピカに思わず反論していた。急に否定されて、スピカはきょとんと目を丸くしてエトワールを見つめる。
「そうなの? でも理屈が分かれば誰でも使えるって」
「そりゃそうだけど、聖言と同じだろ。学ばないと使えないんだから」
 呪文を唱えれば誰でもすぐに使えるわけではない。人が皆教わらなければ泳げないように、魔法も理論を学び、方法を知って、ようやく行使出来るようになる。しかしスピカは納得出来ないのか、「むー?」と口を尖らせた。
「でもでも、あたしライトの魔法知らなかったけど、先生に教えてもらったらすぐ使えたよ?」
「それは――元々無意識に使ってたからだろ。それにライトは一番初歩的で基本的な魔法だ。教えられて使えない方がおかしい」
 世の中にはマナの扱いに不全が生じている者もいるらしいが、そういったごくまれなケースを除けば、ライトの魔法は使えない方がおかしいほど簡単なものだ。スピカが教わってすぐ使えたのは当然である。
「じゃあ誰でも使えるって事でしょ?」
「――違うだろ。ライトが使えるから魔法が使えるって事にはならないだろ」
「何で? ライトだって魔法なのに」
「簡単すぎるんだよ。あの程度で魔法が使えるなんて思い上がられてたまるか」
「うーん……」
 魔法はもっと奥深くて難易度が高い。ほんの入り口を除いた程度で魔法使いを名乗るなんて、第一線で活躍する魔法使い達に失礼だ。スピカは今一つ納得がいかないのか唸っているが、無視してため息をつく。
 頭痛は多少弱まっていた。一眠り出来ればもっといいのだが、風の流れはなく、雪もここまでは届かないとはいえ、温度そのものが低めである事に変わりはない。こんな廃墟で寝たら二度と起きれなくなりそうだったし、そこまでいかずとも体調を崩しそうだ。
 一度麓まで飛んで休める場所を探して、と考えて、魔具がない事に気がついた。岩にぶつかった時にエトワールとは違う方向に飛んでいってしまったのだろうか。なかなかいい出来になったから気に入っていたし、あれがなければ麓まで飛ぶ事も厳しいのだが。
「おい、スピカ。俺のあの魔具は――」
「分かった、エトワールは頑張ってきたから簡単に出来たって言ってほしくないんだよね」
「――……は?」
 スピカに板の行方を聞こうとしたエトワールだったが、急にそんな事を言われて固まってしまった。
「漁師のおじさんが言ってたよ。自分が専門にしてることを、ちょっと練習して『出来た』みたいな顔されるとイラッとするって。エフォール様もかじっただけでその分野のこと語るのはよくないって。そういうことだよね?」
「いや、何でそうなるんだよ」
「え? エトワール怒ってたでしょ?」
「怒ってない」
 スピカの甘い考え方にいらつきはしても怒ってはいない。急に何を言い出すのかと眉をひそめていると、スピカは不思議そうに首を傾げた。
「だってエトワール、いっぱい魔法について知ってるし使えるんだから、いっぱい勉強したんでしょ?」
「そりゃしたけどな。この程度、俺なら出来て当たり前だ」
「そうなの?」
「そうだ。俺の家は才能豊かだからな」
 あれもこれも出来て当然。シュヴァルト家の特徴である万能の才能は、間違いなくエトワールにも受け継がれている。今まで生き、おこなってきた事柄について、エトワールが習熟に苦労したことはなかった。であればエトワールは、スピカの話で言うところの専門家側ではなく、「ちょっとかじった」側だ。
「うー……」
「何だよ」
 事実だというのに、何故かスピカは納得いかなさそうだった。胸の前でパタパタと手を動かして、行き場のない感情の処理に苦慮しているように見える。
「だってだって、才能あったってエトワールが頑張ってきたのは事実でしょ?」
「苦労してないのに頑張ったとかおかしいだろ」
 高みを目指すために相応に苦労した者だけが頑張ったと認められるべきだ。エトワールはまだその域まで達していない。他人に誉められるような功績も残していない。どんな大会で優勝しようとも、それは当然のことなのだから。
「それより俺の乗ってきた板、知らないか? あれがないと長時間飛ぶのは……」
「……エトワールの頭でっかち!」
「あ?」
 今後のための話は、スピカからの唐突な罵倒で遮られた。立ち上がってほうきを抱えたスピカは、少し泣きそうな、怒ったような目でエトワールを睨みつける。
「何でそんな事言うの!」
「な、何だよ、何がだよ。今のマナの量じゃ素で飛ぶのは厳しくてだな……」
「そういうことじゃない! 何で頭いいのにわかんないの!」
 いったい何が琴線に触れてスピカが激昂しているのか。自分の非が思い当たらなければ、スピカの非も見当たらず、エトワールは困惑してしまう。
「おい、スピカ……」
「板は探してくるからエトワールはそこで休んでて!」
 一方的に言い切り、スピカは走って教会を出て行く。ポカンとするエトワールを置いて、ライトの明かりとともに。すっかり真っ暗になった教会の中で、エトワールはガリガリと頭をかいた。
「何なんだよ、あれ」
 まるで意味が分からない。何故エトワールが一方的に罵倒され、その理由も告げずに行ってしまったのか。四ヶ月付き合ってきてもスピカは未だ理解の及ばない部分が多い生き物だった。
「ッ――まだ無理、か」
 ともあれ板を探すため、後を追いかけようとしたエトワールだったが、立ち上がろうとして一際強い頭痛に襲われた。マナ不足は未だ深刻で、動けば意識を持って行かれそうだ。こんな調子ではライトの魔法一つでさえ致命傷になりかねない。スピカが戻ってくるまでは大人しくしていようと、再び体の力を抜いた。
 何もせずに待つだけの時間は長い。何も見えない暗闇であればなおさらだ。いつもの知識をたぐっていく暇つぶしも、頭痛が続く状況では難しかった。マナの浪費による疲労感も手伝って、目の前を見ているのかまぶたを閉じているのかも分からなくなってくる。
 いい加減探しに行った方がいいのではないか。スピカのことだから迷子になったのではないか。あるいは板を探すために外に向かって化け物に見つかってはいないか。様々な可能性や懸念が頭をよぎるが、実際に行動に移せるだけの体力は残っていなかった。
「エトワール!」
 どれほど時間が経ったか、スピカが戻ってきた。先ほどのかんしゃくが頭にあったので、つい身構えてしまったエトワールだったが、彼女はすっかりいつも通りの様子に戻っていた。
「遅くなってごめんね、探したんだけど全然見つからなくて……」
「……まあ、いいよ。外のどっかに飛んだんだろ。仕方ない」
 エトワールの魔具が見つからなかったと肩を落とすスピカ。フォローを入れると顔を上げてホッとしたような表情を見せた。エトワールも内心胸をなで下ろして、自分の理解しがたい反応に眉をひそめた。
 魔具が見つからなかった事は残念だ。だから胸をなで下ろすのはおかしい。安堵するとすればスピカが機嫌を直していた事にだろうが、何故それでホッとするのかが分からない。人にどう思われようとかまわないはずなのに。
「エトワールどうしたの? 具合悪いの?」
 エトワールが顔をしかめている理由を、体調不良からだと思ったスピカが心配そうに顔を覗き込んでくる。否定しようとしたエトワールだったが、すぐに鋭い頭痛が襲ってきて頭を押さえる羽目になった。
「……これぐらい平気だ」
「平気じゃないでしょ。やっぱりちゃんと寝た方が……」
「こんなところで寝たら治るもんも治らないってぇの。……仕方ないから、一回麓まで運んでくれ。そっちならちゃんと休める場所もあるだろ」
「あ、そっか」
 定期的に神官団が山に入っているのであれば、山小屋のようなものがあるだろう。あるいはもっとマシな洞窟を見つけられるかもしれない。どちらにせよ、ここにいるだけでは状況が好転しないのは明らかだった。スピカの助けを借りるなんて、プライドが邪魔をするが、そうしなければどうしようもない事ぐらいは理解していた。
 しばらく休んだ教会を後にする。一瞬視線を感じて後ろを振り返るが、闇の中には何も見えなかった。今日一日、予想外のことばかり起こったから、気がたっているのかと頭をかく。
「さ、エトワール」
 穴の下まで戻ってくる。スピカはほうきにまたがると、胸を張ってエトワールに後ろに乗るように促してきた。どうしてそんなに得意げなのかと閉口するも、今はそれしか方策がない。渋々スピカの後ろに座り、彼女の腰に手を回した。
 回してからその細さに驚き、思わず手を離した。制服を着ている時は、ブレザーに体格が誤魔化されて分からなかったが、骨と皮しかないのかと思うほどだった。下手をするとまだ十二歳の弟達よりも細いかもしれない。
「どうしたの?」
「あ、いや……何でもない」
 不思議そうなスピカに、再び腰に抱きつく。同い年の少女と密着する機会も初めてだが、それにしたってスピカは細すぎると感じた。必要最低限の食事だけではやはり痩せていくものなのだろうか。
「じゃあ飛ぶね」
 学園に戻ったら何か食べさせるべきか。そんな風に考えているエトワールに声をかけて、スピカは地面を蹴った。すると、ふわりと優しい風に包まれて、宙に浮かび、そのまま穴を目指して上昇していく。体調が悪いエトワールを気遣っているのか、速度はそこまで出ていなかった。
 穴の外に出ると、外は晴れていた。しかし天頂に広がる青空は、地平線の赤に徐々に浸食されている。来た時はまだ昼だったはずだが、地下にいる間にかなり時間が経っていたようだ。
「わぁ、綺麗だね」
「……そうだな」
 世界一高い山の上から見る夕焼けは確かに美しかった。同時に、日帰りの予定が一泊になった現実に眉をひそめる。見積もりの甘さが招いた結果とはいえ、学園が休みに入っていてよかったと感じた。
 高く飛ぶと下が見えなくなるためか、スピカは山肌に沿って麓へと飛んでいく。比較的のんびりとした空中散歩に、エトワールはぼんやりと一面の雪景色を眺めていた。こんなに標高が高く、雪が深い場所では植物は育たないのだろう。岩が時々ある以外は平坦な風景だ。
 後方に向けた視界に黒が一瞬映り込んだ。マナ不足から来る見間違えかと思ったのも束の間、白の中を跳ねてこちらに向かってくる黒にハッとする。
「スピカ! 速く!」
「ふぇ?」
 スピカに注意を促すが、遅い。あっという間に点から姿形が確認出来る距離まで詰めてきた黒は、勢いよくエトワール達に飛びかかってきた。
「きゃああ!?」
「うわっ!!」
 飛びかかってきたのは先ほどの怪物だった。幸いにしてその爪に当たりはしなかったものの、着地と同時に雪を巻き上げた暴風が発生し、エトワール達は吹き飛ばされてしまった。
「くぅっ……」
『ミィツケタ――』
 耳障りな雑音を発する化け物。何を言っているかはやはり分からなかったが、嬉しそうな事だけは理解出来た。きっと獲物を見つけて喜んでいるのだ。
「っそ!」
『ウ……? ア、ワカッタ! ツギハキミがオニダネ!』
 捕まってたまるかと駆け出すと、エトワールを追って化け物も走り出す。スピカと離れたせいで凍てつく空気が痛かったが、そんな事気にする余裕はなかった。逃げなければ捕まる。捕まればどうなるか――嫌な想像しか出来ない。
 坂道な上に雪道で、足を取られて転びそうだ。倒れ込む前に足を出して何とか走り続ける。化け物がエトワールに気を取られている内にスピカは逃げただろうか。せめて彼女だけでも無事に逃げられれば――
『ソレッ!』
「あ、わっ!?」
 再び暴風がエトワールを襲い、吹き飛ばされる。受け身はとったものの、すぐ立ち上がれず、ゴロゴロと転がる。仰向けに倒れ込んだエトワールが起きあがろうとして、胸を押さえられた。
「あ、ぐっ……!」
『ツカマエタァ』
 化け物がニタリと笑っている気がする。先端が二股に分かれた、牛の蹄のようなものに胸を圧迫されて、肋骨がギシギシと軋む。これ以上好きにさせてたまるかと、エトワールは「スタット!」と息を吸い込んだ。
「テトラペンタラジストロラーストロテトラペンタラジストロラーストロオウモヴェエンデ!」
 眼前に迫った化け物の顔を手のひらで突く。次の瞬間、触れた箇所から天に向かって雷が走った。
『ワアアアア!?』
「くぁっ……!」
 ダメージが入ったのかそれとも驚きからか、化け物はエトワールの上から飛び退いた。しかし同時に、マナがないのに魔法を使ったせいで、意識を持って行かれるかと思うほど一際激しい頭痛に襲われ、エトワールは頭を押さえてのけぞった。攻撃魔法はマナを多く消費する傾向にある。その中でも雷を扱うものは高い威力の分かなりマナを食うため、緊急時に使うものではない。なのに真っ先に浮かんだからと使ってしまった事を後悔する。
『ヒドイ、ヒドイ……ナンデ? ナンデイタイコトスルノ?』
 化け物の声が近くで聞こえる。怯んでいる隙に距離を取らなければいけないのに、なかなか復帰出来ない。ほんの一秒二秒の差が致命的な状況だというのに体が思い通りに動かない。
「エトワール!!」
「スピカ、逃げ――」
「エトワールから、離れてぇぇぇ!!」
 スピカの叫び声が聞こえる。逃げろと叫ぼうとし、ようやく体を起こしたエトワールが見たのは、雷斧(らいふ)だった。
『――ギャアアアア!! アアアアッ、イヤアアアア!!』
 辺りを白く染めた雷光に遅れて轟音が鳴り響いた。二度の雷をまともに受けた化け物は、悲鳴を上げながらどこかへと走り去っていく。呆然とその光景を見ていたエトワールに、スピカは勢いよく抱きついてきた。
「エトワール! よかったぁ、よかったぁ! 生きててよかったぁ!」
 顔をグシャグシャにして泣くスピカ。エトワールはそれに対して何も反応出来なかった。先ほど見た雷斧があまりに衝撃的だったからだ。
 巨大な体躯の化け物を飲み込もうかというほどの稲光(いなびかり)だった。あれほどの雷を、詠唱もなしに瞬時に発動し、マナの枯渇に苦しんでいる様子がない。技術や知識ではなく天性のセンスと圧倒的なマナ保有量で強大な魔法を使いこなしていた。
「……何でだ」
「え?」
「何でお前、魔法知らなかったんだよ」
 ぐるぐると渦巻く感情が、勝手に口から出ていた。この状況でそんな事を聞かれるとは思っておらず、スピカは体を離してきょとんとエトワールを見る。
「おかしいだろ。何で誰もお前に魔法を教えなかったんだよ」
「エトワール?」
「こんなにマナがあってセンスがあるのに。神父は魔法使えるんだろ?」
「うん。でも神父様は必要ないからって」
「違うだろ。村で必要なくても才能があるなら学ばせるべきだろ」
 こんなに魔法に秀でた才能を持つのだから、幼少期から学ばせれば学園でもトップクラスの実力を得ていただろう。あるいは初等教育を終えた時点でどこかの研究施設なり国の機関からスカウトされていたかもしれない。少なくとも今のスピカの、あまりにも魔法に対して無知な状態は間違っている。
「教頭がお前のこと見つけなかったら学園にだって来なかっただろ。そんなのおかしい」
「でもあたしも魔法のことよく知らなかったし」
「だからそれが間違ってるんだよ。教えるべきだろ」
「でもエトワール、学校も近くになかったしお金も……」
「だからそれが間違ってるんだよ!」
 思わず声をあらげていた。スピカに対してではなくスピカに対して何もしないまま放置していた周囲に対して、エトワールは非常に苛立っていた。
「才能があるなら環境を用意してやるのが保護者のつとめだろ、金が問題だって言うなら工面してやってさ! 何も教えないってのはただの怠慢だ!」
「そ、そんな事ないよ! 神父様はちゃんと神様のことあたしに教えてくれたよ!」
「それだけだろ! お前が魔法に秀でてるって分かってたなら魔法も教えるべきだった! その上でお前が神の道を選ぶって言うならともかくさ!」
「でも、でもっ……!」
 選択肢を与えるべきだった。与えないで一つの道しか示さないのは教育者としての怠慢だ。スピカは反論の言葉を探していたが、やがてじわりと涙をにじませた。その姿にギョッとしてしまう。
「な、なんだよ」
「だって、だって、あたしはなんて言われてもいいけど、神父様が悪く言われるのはイヤだし悲しいもん……」
 ぐすぐすと鼻をすするスピカ。エトワールは感情にまかせて言い過ぎた事に気付いた。スピカは悪くない事で、彼女に当たったって仕方ないのに。エトワールの頭は冷えたが、今にも大泣きしそうなスピカにどうしたものかと後頭部をかく。
「あー……」
 こういう時、どう言えばいいか分からなかった。エトワールは仲直りをしたことがない。正確には、自分から仲直りした事がない。家族と喧嘩する場合は大体相手に非があるからエトワールから謝る必要がない。外の相手とは対等に喧嘩をした覚えがないし、そもそも修繕すべき仲がなかった。しかしスピカが泣いていると困り、このまま嫌われるのはよくないと――何故かそう感じていた。
 どうすればいい。この場を切り抜けるだけでもかまわない。何か手はないか。蓄えた知識の中から打開策を探していたエトワールは、ハッと兄弟達とのある交流を思い出した。
「スピカ」
「うぅ……ぐすっ……ぇ、わっ?」
 スピカの背中に手を回し、ぎゅうっと抱きしめる。兄弟達は仲直りの終わりに決まってハグを要求してきた。自ら抱きしめる行為は相手への謝意やら何やらを示すのに最適なのではと思ったのだ。
「……あー……お前に言っても仕方なかった。八つ当たりして、その……悪かっ、た」
 今回はエトワールが悪い。分かっているから謝罪を述べねばならない。しかし喉に言葉が引っかかって、上手く言えなかった。今まで謝る機会なんてほとんどなかったからだろうか。
「――うん。大丈夫、エトワール。ありがとう」
 スピカもエトワールの背に腕を回し、抱き返してくる。その感触は、存外心地良いものだった。
5 期末試験
表紙